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【過去記事から】内田樹著『先生はえらい』を読んで(2011/09/20)

 こんにちは。

 昔のブログを読み返しているのだが、中にはこれは「公開」しておいた方がいいかなと思うものにぶつかることがある。それらを転載してみたいと思う。なお、語尾は「だ・である」体に統一させた。

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先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 

 しばらくぶり(2011年当時)に、一冊の本を読み終えることができた。もっと早くに出会っていても良さそうなものと思ったが、奥付を見ると、私のうつの状態が最もひどい時に発刊されていたから仕方がないと思った。

 さて、この本は「先生」と呼ばれる大人に、如何に出会い、そこから如何に学ぶのかを主題とした本ではあるが、内容は大きく迂回して、「コミュニケーション」について、かなりの分量が割かれている。「学ぶ」といった行為についても、「コミュニケーション」の一環としてとらえている。

 開かれた、または継続するコミュニケーションは、如何にして成立しているのか? それは「誤解の余地」が残されていることが条件だと著者は述べている。

 なぜ「理解」ではなく、「誤解」なのか? 後者を「解釈」と置き換えてみると分かるかと思うのだが、一意の「正解」のみ許容されているコミュニケーションは短命に終わる。人間は「分からない」ことには関心を持ち続けるが、「分かった」ことにはあまり関心を払わないからだそうだ。

 活性化するコミュニケーションというものは、相手が◯◯を期待しているに違いないと思い込みながら、それまで知る由もなかった自分と出会っているときに発動する。今まで気にも留めていなかった事柄が、急に意味をもって思い起こされている、まさにそんな時がコミュニケーションの快楽を味わっている時といってよいだろう。そう、コミュニケーションは本質的に快楽であり、それゆえに「継続」を求めることになるのである。

 私はこれらを読んで、対話はもちろん、読書や音楽鑑賞などにもあてはまりそうだなと思った。より多く、より深く知りたいという欲求が、類書を読み、同じ曲目のCDを入手し、ということにつながるのではないだろうか。

 それともう一つ。分かった人/分からない人との間に横たわっている深い溝という問題についてもヒントを得た。

 今までは、分かった人は「自分がわからないでいたこと」を忘れてしまい、「なぜわからないの?」という態度を取り勝ちだと考えていた。これをコミュニケーションの確保、継続という視点で見ると、人間は「分かった」ことについては興味を失うとの記述があったように思う。この、関心の濃淡や温度差が、二者間で作用してしまい、コミュニケーション不全を起こしてしまうのではないか。そんな印象を持った。

 さて、肝心の「先生」はどうしてえらいのかについてであるが、内田さんとのコミュニケーションの余地を残しておくために、本稿はここで終わることにさせていただこうと思う。

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 最後までお読みいただきありがとうございました。